fuente編集後記
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91号 92号
92号編集後記
会員からこのような内容の手紙を受け取った。
「私は『fuente』が届くと、まず諸賢の最初の一行を全て読みます。最初の一文、最初の一行を全ての人が苦労して、のたうちまわるくらい苦しんで、考えに考え抜いて書き記しているからです。」
フエンテの読み方にはいろいろとあるようですが、まさか、全ての文章の最初の一文・一行を真っ先に読まれる人がいるとは思いも寄らなかった。
文章を書くことは考えること。「考える」にしても、思案、思索、思考、考察などと多種ある。私は高校生のときの現代文の成績は5段階で2。若い頃からの劣等感は未だに消えない。
会員の皆さん、ともに悩みながら文章を綴ってゆきましょう。
また、別の会員の方からの手紙にはこのようなことが書かれていた。
* *
最近読んだ本にこんな文章がありました。1990年頃のものです。
「ハッキリいおう。レコードはジャケットがいいのと、音がいいのと、長持ちすること以外は全部CDにしてやられたのだ。
だから、合理性を最優先する人は迷わずレコードを全部ドブに棄てたらいい。
少数派の「あきらめきれぬ人」たちがレコードをちゃんと守っていくから心配は無用だ。」
レコードを万年筆に、CDをワープロ(PC)に置き換えてみました。すると、自分も「あきらめきれぬ人」だったのかもしれない。『fuente』を愛する皆さんもきっとそうなんだろうな、との思いに至りました。
あきらめきれない、というもの悪くない。ちょっと嬉しくなりまして、でべそさんに駄文を認めてしまいました。
* *
いいなあ、「あきらめきれぬ人」。
「あきらめきれぬ人」だったかもしれないと、ちょっと立ち止まってみておられる。この振る舞い方もしなやかでいいなあ。
思えば、少数派に身を置くことの多い私の人生だった。「寄らば大樹の陰」、「長いものには巻かれろ」的な生き方を選択してはおらぬかと、自分を疑ってみることもしばしばあった。しかし、少数派に身を置くことで損をしたり、不利益を被ったことはなかった。
フエンテの発行数も少数。高速、大容量、グローバルが叫ばれ続けている今日で、低速、小容量、ローカルを維持してきた。SNSの世界では万単位の数字が飛び交っている。ときに羨ましいと思うこともある。しかし、費用と時間を考慮すると、これ以上のことはやれない。「あきらめきれぬ人」として、ひっそりと生きていこうと思う。
水彩画をささやかに始めた。とても奥が深く、面白さに溢れている。もっと早く始めれば良かったと後悔した。
下の絵は水彩画ではないが、面白かったので紹介する。ペンはセーラーのふでDEまんねん。インクはモンブランのボルドー。水性インクなので水で溶ける。ペン画で描いた後、筆に水を付けてインクを滲ませて遊んでみた。思いも寄らない部分が滲みで変化を見せ、線とは何か? などを思案し、新しい発見があった。遊びは発見の母だ。
91号編集後記
いつかは・・・。
いつかは○○をしたい。そう思っていることが幾つもある。
しかし、私は知っている。いつかは○○したいと思うことは、永遠に実現はしないことを。
いつかは・・・、この日は来ないのだ。
散歩のとき、私はちょこちょこっとペン画を描く。セーラー万年筆「ふでDEまんねん」とスケッチブックがあれば、どこでも描ける。ふでDEまんねんは素晴らしい万年筆だ。これを開発した万年筆職人の長原宣義さんと画家の古山浩一さんは、万年筆業界、美術界、教育界から表彰されてもおかしくはない。何しろ、私のような、義務教育でしか図工・美術をやっていない素人でも、ペン画を描くことができる万年筆を開発したのだ。芸術・文化を専門家だけのものにしてはならないという意味でも素晴らしいことだ。
ところが、5月以降の季節になると困ったことになる。歩いていると庭の花が気になってくる。特にバラの花。その後のアジサイ。何度かペン画で描いたが、どうも楽しくない。鮮やかさや華やかさを、黒一色のペン画で表現することができないのだ。濃淡をつけてみるが限界がある。やはり色をつけたい。あのバラの花の深い色。アジサイの瑞々しい表情。それらを紙の上に表現できたら、どれほど楽しいことだろう。水彩画の本を読み、絵の具、筆、紙を買った。しかし、それらを購入したものの、いつまでも未使用のままで放置してある。
いつかは水彩画を勉強してみたいと思いながらも、いつまで経っても始めようとしない。昨年も、一昨年も、気が付けばバラの花は散り、アジサイは茶色になってしまった。2024年、今年こそは水彩画の勉強をするぞと決意したが、早4か月が過ぎたが、一枚も描いていない。この調子では今年もバラは散りアジサイは変色してしまうかもしれない。人生の残り時間が長くはない歳になっているにも関わらず、私は何をやっているのか。
よし、この場で、萬年筆くらぶの会員の皆さんに宣言しよう。次号のフエンテ92号で私の水彩画の挿絵を披露すると。「もし、それができなかったら、どうしますか?」「はい、萬年筆くらぶの会長を辞任します」あれ?? どこかで聞いたような会話だ。
ところで、会員の皆さんからのお手紙やメールに、「私もいつかはフエンテに寄稿してみたいと思っています」と書かれていることがある。でも、なかなか実現できない人が多い。私の水彩画と同じだ。仲間同士だ。
しかし、フエンテの発行が永遠に続くことはない。いつかは突然に終わる。ああ、あのとき投稿しておけばよかったと後悔することにならぬよう。
さあ、原稿を書いてお送りください。文章の巧拙は問わないというのがフエンテの流儀。
文化は専門家だけのものにあらず。
文化は市井のもの。
私も水彩画を始めます。
90号編集後記
筋を曲げるくらいならハングリーを良しとする。世間におもねず、ちゃらちゃらしないで、その時々の場所に体を張って立つ。ただし、「テメエ一人でロック状況を作ってんじゃねからね」
内田裕也さんの言葉だ。
萬年筆くらぶ発足時、私、テメエだったこともあったような気もする。歳を重ねた今、発足当時のことを恥ずかしく思い出す。しかし、万年筆が絶滅危惧種扱いされた、あの万年筆凋落期、テメエの気概も必要だった。
あれから30年。実に多くの人に支えてもらい、いまではすっかりテメエではなくなったが、「テメエの精神」だけは心の片隅に大切にしまってある。
AIだぁ、チャットGPTだぁと世間が騒がしい。ビジネスだけでなく、文学も音楽も芸術も、AIに取って代わられるのではないか、仕事を奪われてしまうのではないかと不安になっている人もいる。確かに何らかの作品を作っている人はそうかもしれない。一定の技術を身に付けるまで、どれほどの時間を要したことか。どれほどの苦しみを味わったことか。AIはそれを短時間で身に付けてしまう。これから技術を学んでいこうとする人が不安になり意欲を持てなくなるのも理解できる。
ところで、フエンテの世界はというと、これをAIは作ることはできない。執筆者はできあがった作品を楽しんでいるのではない。作品を書くことを、時には苦しみながらも楽しんでいるのだ。読む人は、書かれている内容だけを楽しんでいるのではなく、「執筆した人の人間臭さを含めての内容」を楽しんでいるのだ。フエンテが入っている茶封筒を受け取ったときは、でべその顔を思い浮かべる。フエンテを読むときは、勝手に執筆者の顔を想像している。発送者・執筆者がAIだったら顔は見えない。
フエンテには多くの人間が関わっている。だから書く。だから読む。人間が関わっていない文章、それはただの文字の列だ。文字の列が、たとえ価値のある認められる文章であっても、読者の心は動かないであろう。
・・・というようなことを、小特集「フエンテ90号に寄せて」を編集しながら考えた。そして思った。
私はこの人たちに支えられてきたのだ。
この人たちに育てられてきたのだ。
ああでもない、こうでもないと悩みながらも楽しんで文章を書いてくださる方がおられるから、私はフエンテを続けることができた。
小特集では多くの感謝の言葉をいただいた。しかし、私はここで表明したい。いただいた謝意の百倍の感謝の気持ちを、私は会員の皆さんに対して持っていると。
萬年筆くらぶの会員の皆さん、そしてサポーターの皆さん、心より、ありがとう。
でべそは幸せ者です。
87号編集後記
稼ぎがいいから好き勝手ができて、食事も豪華。でもそこで得られるものって大したことないとつくづく思う。 会社員から漁師に転職した佐々祐一さんの言葉だ。
これを新聞で目にしたとき、2022年の交流会を無事に開催できて良かったという思いと結びついた。万年筆研究会WAGNERとの共同開催の万年筆交流会の参加者は70名だった。最近では筆記具関連の催事が各地で開催されており、その参加者数は4桁だと聞く。それに比べると万年筆交流会はなんと小さな集まりだこと。しかし、会場は多くの人で賑わい、参加者全員とは会話することができなかった。若い人(中学生、高校生)も多く見られ、若い人も万年筆を使うようになったんだぁ~と目を細めたり、彼等が持っている高級万年筆とカメラを見ては、逆に目を見開いたりと、いい刺激になった。
長年参加されている方々は、お互いの健康を確認し合いながら、その後の万年筆談義や世間話をされていた。アルバム(萬年筆くらぶ会員の写真を貼ってメッセージなどが書かれているノート)を持って来られた人がいて、その周辺は笑いと歓喜の渦。ブラボー。それぞれの若かりし頃の写真を見ては、ああ、懐かしい。お互い歳をとったけど、こうやって一年振りに会い、再会を喜び合える幸福を味わった。アルバム(ノート)を持ってきてくださったMさん、ありがとう。
交流会の後片付けの際、段ボール箱6箱の処理をどうするか困った。1つの箱に他の5箱を潰して詰めて我が家に送るしかないか。しかし、お金を払うからとは言え、処分するゴミを運んでもらって我が家まで配達してもらうことに、そのようなことをしていいのかな・・・と抵抗感を感じた。かと言って、これを持ち帰ることは不可能だ。
どうしようかと考えていたら、交流会でスタッフをやってくださった方が、「みんなで持ち帰りましょう」とスーパーのレジ袋を出してくれた。段ボール箱を小さく千切ってレジ袋に入れて縛り、それを出口に並べた。「お帰りの際、1袋協力をお願いします」沢山あったレジ袋はあっという間になくなり、段ボール問題は一気に解決した。素晴らしい。売れ残った重たいムック7冊の処理も、私が・・・と引き受けてくれた人がいた。皆さんの御協力がどれほど嬉しかったことか。
交流会から2か月経ったいまも、あの日の一場面、一場面を思い出す。そして、幸せな気持ちになる。この幸せ、幸福感は2か月も続いている。結構、芯まで届いているじゃないか。
2023年も交流会を開催したいな。
3冊のフエンテと1回の交流会。萬年筆くらぶはこれだけしかできないけど、皆さん、みんなで幸せになりましょう。
そう、芯まで届くようなやつ
81号編集後記
81号からフエンテは少しばかりリニューアル。80号までは製本を私が手作業でやっていたが、81号からは外注することにした。見た目は少し変わったが、中身は変わらない。誰でも参加することができるフエンテ。どのような価値観も表現も認め合うことのできるフエンテ。年齢・職業など関係なく、ただただ自分を表現する遊びの場であるフエンテ。その理想は変わることはない。
フエンテのフランス綴じを切るのが楽しみだ。フエンテのフランス綴じを切るためにペーパーナイフを買った。そのような方々には申し訳ない。3辺の切断、表紙の黒色印刷、これを呑まなければ経費が嵩んでしまう。しかし、81号はリニューアル初版。今後、皆さんの声を聞きながら、改良していきたいと思う。
コロナ禍。毎日目に飛び込んでくる単語。ウンザリする響き。コロナに負けるなと言われても困る。どんなに予防してもコロナに罹る可能性はあるし、病気になっても精神力だけでは勝てない。
コロナ禍に負けるな。負けるなって言うのならこっちだね。社会全体が沈んでいる。制限が多い。仕事がなくなった。対策も打てない。人の心も沈んでゆく。
私は例年沢山の葉書を書くのだが今年は500通くらい。届く手紙が減っている。郵便屋さんが我が家を素通りして走り去る。いままであまりなかったこと。
コロナ禍で仕事を失い万年筆どころではなくなっている方もおられるのだろう。コロナ、コロナで気持ちが沈み、手紙を書く気持ちになれない方もおられるのかもしれない。
分かります。その空気感。実は私もそう。旅にも行けず、会いたい人に会いにも行けないなど、やりたいことがやれない日々。それがいつまで続くかも分からない。何の対策もとれず「マスク会食」くらいしか言えない首相(2020年12月1日現在)。心が沈むのは当たり前。そのようなコロナ禍が日常化している。心のダメージは日々社会の中でも深刻化している。この現実は社会全体として受け止めたい。
フエンテは年に3回、忘れた頃に届く、非日常の定期便。日常の一日にそよ風が吹き抜ける。こんな世界もあったのだと思い出す。コロナ禍で不安が多いこの時分に、こんな非営利の取り組みを未だ続けている人が身近にいるのかと立ち止まってみる。そのような切っ掛けとなるフエンテであってくれたら嬉しい。
コロナ禍で多くのことが変わってしまった。しかしフエンテは変わらず定期的に届く。大丈夫だ。世界は変わっても、変わらないものがある。
コロナ禍に負けない。フエンテはコロナ禍に負けない。
大丈夫。
79号編集後記
ハマスホイ展に行った。入場して最初に目にした、都立美術館が設置したパネルに釘付けになった。
「急いで語らなければならないような芸術家ではありません」
この言い回し方、持ち上げるのかと思いきや、落とす。来館者にいきなり否定文を投げつける。
ウーン、なるほどね、ハマスホイ、そうかもね。作品をしっかりと観て、このコピーの真意を考えることにしようと思い足を進めた。
ハマスホイの作品は、要素を徹底的に排除し、吸い込まれるような静寂に満たされていた。装飾品や家具のない、ほの暗くがらんとした室内の絵。時には妻らしき女性の姿も描き込んであるが、その女性もほとんどが後ろ姿で、その感情は読み取れない。妻を尊重し、一度割れた陶磁器のパンチボウルを継ぎ合わせるなど、人やものを大切にする丁寧な暮らしぶりが表現されている。他の画家からはなかなか感じられない謎めいた不思議な静けさに、私は引き付けられていった。
時代は印象派に続いてポスト印象派が登場し、象徴主義、キュビズム、表現主義など、強烈で魅力的な新しい芸術が次々と生まれたころである。ハマスホイも大きな影響を受けたであろうが、彼はそのなかで独自の絵画を追求している。時代に流されない静かな生き方を選択した。
「急いで語らなければならないような芸術家ではありません」
館内を歩いていると再び心の中に響いた。
ハマスホイは北欧のフェルメールと呼ばれることがあるが、ある画家によると、フェルメールより3段くらい落ちるとのこと。
しかし、私はフェルメールの作品に負けないくらいの感動と充足感を味わった。私には絵画の技術やテクニックは理解できない。できないが故なのかもしれないが、ハマスホイの作品はごく自然に私の心に染み込んできた。たまたま私の心と共鳴しただけなのかもしれないが、芸術作品には技術やテクニックとは次元が異なる何かが備わっているようにも思える。
「急いで語らなければならないような芸術家ではありません」
美術館に行った日以来、心の中でこのコピーが時々思い出される。
作品に添えられていた解説によると、オランダではヒュッゲ(hygee)という価値観が大切にされているとのこと。それはくつろいだとか心地良い雰囲気というものを意味する。デンマーク国立美術館蔵のヴィゴ・ピーダンスの「居間に射す陽光、画家の妻と子」などはヒュッゲを表現している最たるもの。真に尊いものは日常の一瞬に宿ることを強く感じさせてくれる作品だ。
年に僅か3冊のフエンテ。「急いで作らなければならないような冊子ではありません」「何かを期待して作るような冊子ではありません」
ハマスホイの絵画のなかの日常のように、書き手にとっても読み手にとっても、フエンテが生活に溶け込んでいるヒュッゲな存在であったら嬉しい。
日常の一瞬に何かが宿るようなフエンテ。
そんなフエンテを今後も作り続けていきたい。
会員の皆さんと一緒に。
78号編集後記
実は、私は「裏紙愛好会」の会長を長いこと務めている。裏紙愛好会というのは、資源の問題や環境の問題に触れることもあるが、根底には、裏紙に「儚さ」や「侘しさ」を感じ、愛おしくて捨てることができない人間の感情を扱う会である。
私は、まだ使うことのできる裏紙をゴミとして捨てることができない。現職の頃、会議資料は必ず裏紙に印刷をしていた。退職後もフエンテのゲラ刷りなどは裏紙に印刷している。
ところで、私はメモ用紙にも裏紙を使っているのだが、hiramekiというメーカーから、その名もズバリ「裏紙メモカバー」という商品が販売されている。サイズがMとSの2種類あり、A4サイズの紙をそれぞれ4分の1、8分の1にカットしたものに2穴パンチで穴を開けて、リングを通して綴じるというシンプルな機構だ。カバーにはイタリアンレザーが使われており、使っていくうちにいい味わいへとエイジングされていく。筆記具を差す部分も用意されているので、ペンケースから筆記具を取り出す必要はない。8分の1カットのA7サイズのSはズボンの尻ポケットにも入るサイズなので、気楽に持ち歩くことができる。A6サイズのMは鞄用だ。
この「裏紙メモカバー」を使うにあたって楽しいことがいくつかあるが、その一つに紙のカットがある。A4サイズの紙を折ってペーパーナイフでカットしていく。手間が掛かるといえば手間がかかる。しかし、裏紙を切っていくときの優雅な気持ちに加え、何とも言えぬ神秘的で力強い気持ちになる。裏紙に再び生命を吹き込む。裏紙の新しい人生が始まる(何と大ゲサな...)。このメモ用紙にどのようなことが書かれることになるのかという期待感。資源を無駄にしていないという確信。それらを感じながら作業をする。シャリシャリという音と、ペーパーナイフから指に伝わってくる抵抗感が心地良い。
そして、そのカットした紙を裏紙メモカバーにセットして紙の束をパラパラと捲る。裁断面が不揃いなのが実にほのぼのとしていて温もりがある。ビシッと揃っているのは気持ちはいいが、どことなく冷たい。不揃いで、しかもペーパーナイフでカットしたザラザラ感が、「私は紙で御座います」といった感じを主張していていじらしい。
私はこの「裏紙メモカバー」を常に持ち歩き何でもメモする。頭で考え頭で記憶することはしない。紙の上で考え紙に記録する。紙には無限の可能性がある。
夜空を見上げ、1人空想に耽る。
世界中の人が一日に一枚の裏紙を再利用、もしくは捨てないとすれば、その総数は77億枚。77億枚の紙を重ねると厚さはどれくらいになるかと言えば、なんと、約770㎞。地球の大気の厚さが約100㎞。人工衛星ひまわりの高度が36000㎞。月までの距離が384400㎞。徒歩で11年掛かる。全世界の人が、一人一枚の裏紙を無駄にしないことを500日(1年半弱)続ければ、裏紙の厚さは月に届いてしまう。
ところで、裏紙愛好会というのは何名くらいの会員がいるのですか? という質問。
はい、会長の私を含めて1名です。
75号編集後記
小特集「fuenteと私」を読んで、いろいろと思いを巡らせた。時の流れという縦糸に対して、万年筆への思い・フエンテへの思い・家族や友人の思い出という横糸が織りなす数々のドラマ。それぞれが心に響き、私の心はしばしば深淵へと落ちていった。しかし、過ぎ去った時間の中で藻掻きながらも明るい希望の光を感じる。これが生きるということなのだと感じる。
皆さん、難しいテーマに取り組んでくださった。しかも数十年間、または数年間を僅か200字で表現するという制約付き。削り取り、削ぎ落とし、核となる部分だけを残す。
文章に巧拙などない。伝えたいという熱い思いを持っているかどうか。それは文章に限らない。実は、日常生活そのものが問われている。
文字数をオーバーしてしまいまして...という断り付きの投稿もあったが、いいんです、熱いんですから。そして、フエンテは遊びの世界なんですから。
四半世紀という時間の厚みを考えてみた。
国内のガソリンスタンドはこの四半世紀で半減したという。最盛期の1994年には6万軒を超えていたのが、いまや3万軒になっているそうだ。マイカー離れでガソリン需要が落ち込んだこと、老朽化した地下タンクの改修が義務づけられて経営を断念せざるを得なくなったなどの理由があるらしい。
それにしてもガソリンスタンドに最盛期なるものがあったことに改めて気付く。そう言えばガソリンスタンドは、当時の高校生達のアルバイト先の花形だった。大声を出して元気よく働く姿が格好良い。将来はガソリンスタンドの経営者になりたいと話していた教え子もいた。四半世紀前の1994年というのは、ある意味、華やかで活気のある時代だったのだ。
萬年筆くらぶが誕生したのが1993年。ワープロやパソコンが店頭に、私達がこれからの世界を創っていくのだと言わんばかりに並び、書店ではパソコンの入門書が平積みされていた。一方、万年筆はというと、凋落という言葉の意味・ニュアンスを説明するのに最適で、誠に相応しい存在の品となっていた。
ガソリンスタンド、ワープロ・パソコンが「華やかな存在」であった四半世紀前。
万年筆が消えていこうとしていた四半世紀前。
あれから25年。ガソリンスタンドは半減した。一方、万年筆は凋落後にレコード盤と同じく世の中から消えるかと思われたが、今日、万年筆をはじめ筆記具の世界はなかなか元気である。私達のフエンテも生き延びている。
これはどういうことなのか。
このことから何を学び、今後、どう生きていけばいいのか。
人間は歩く。必要に応じて電車や車を使う。
人間は書く。必要に応じてパソコンやスマホを使う。
どんなに交通が発達し、どんなに電子機器が便利になろうとも、歩くこと、書くことを人間がしなくなるとは思えない。
人間は人間らしくありたいのだ。
巨額マネーが投入され膨らみ続けているネット社会。個人の手による、フエンテのような紙物であるささやかな冊子の郵送との対比を思う。私がやっているフエンテの発送というミクロのような行為は、ネットに代表される超高速・大容量・グローバル化に対するレジタンス(抵抗)でもあるのだが、そのようなものも言ってしまえば、たかが「遊び」なのかもしれない。
皆さん、今後も大いに遊びましょう。
69号編集後記
68号の編集後記で還暦を迎えたという話を書いたら、それに関するお手紙を多く頂戴した。「フエンテの山積みの傍で走り回われていたご子息、ご令嬢も立派な社会人となられたのだろうなと推測しております。」
そう言えば、フエンテを製作する際の重ね綴じ作業(ページごとに順番に並べてある印刷物の山から一枚一枚取り、1ページから最終ページまでの1冊にするもの)は子ども達の仕事だった。あの頃小学生だった娘も2児の母となり、2人の幼児から私はジージと呼ばれている。
我が家の今は、子ども達は独立し、妻と2人暮らし。フエンテの重ね綴じ作業は妻がやってくれている。将来は孫達が手伝ってくれることもあるかもしれない。この情報社会の中で生まれ育っている孫達に、ジージが取り組んでいることを果たして理解することができるだろうか。
かつての編集後記にこのようなことを書いたことがあった。「家から歩いて行けるところにアンティーク家具屋と古本屋が3軒あり、それらをブラブラしながら編集後記の内容を考えている。」その後の編集後記では「そのアンティーク家具屋が閉店し、3軒の古本屋も次々と閉店してしまった。ゆっくりと時間を過ごす大人の遊び場がなくなってしまった。」 編集後記を書くのは書斎だが、内容を考えるのは書斎とは限らない。私の場合は歩いている時にポッと思い付くことが多い。だからアンティーク家具屋と古本屋の閉店は痛かった。有力な思考の場を失ってしまったのだった。
それらがなくなり、還暦を迎えた今はどうしているかと言うと、約5キロのランニングコースがお気に入り。畑と住宅地を分ける小さな川沿いを走り、かつて12年間勤めた高校の前でUターン。フエンテの編集後記や『鞄談義』の原稿はほとんど走りながら考えた。先日は書斎で何日も考え続けていた数学の疑問が、走っている途中でポッと解けた。 畑は季節によって光景が違う。それを見ながらゆっくりと走る。雑草と闘っている人を見ると手伝いたくなる。花を育てている人がいると、「いつもきれいに咲いていますね」と立ち止まって声をかける。 Uターンする高校の前では休憩を兼ねて柔軟体操。校舎を見ては思い出に浸る。萬年筆くらぶを発足したのは、ここに勤めていた時だ。大変な問題を抱えている生徒が多かった。闘いの日々。差別・格差・貧困の中で自信を失っている生徒たちの心を解放する闘い。 私は『金八先生』を辛くてみることができなかった。
書斎にいてはこのような刺激はない。この刺激が「ポッ」に繋がるような気がする。勿論、無からは何も生まれない。考え続けていたことが、身体の揺れと脳や心への刺激とにより、予告もなくポッと表面に出てくるのだと思う。
この「ポッ」だが、同じように歳を重ねてこられた会員の皆さんにもあろうかと思う。万年筆・文具関連の皆さんの「ポッ」をフエンテに掲載してみたい。ダイヤストアと歴民博の特集は社会的な記録としてささやかであっても残す意図で企画した。一方、この「ポッ」は個々の人生の記録。特集は組まないけれど、何かあったら是非御寄稿をお願いしたい。人それぞれの生活・人生の記録。それは20年以上続いてきた会報誌『フエンテ』の更なる成熟に繋がると思う。
いつも私は思うことにしている。今までいろいろな事があったけど、これからが本番。
66号編集後記
先般50号を発行したのが2010年であった。『fuenteに寄せて』という記念誌を作り、多くの人の筆跡をそこに残したのだった。万年筆文化の一つの記録。ピンクの表紙の冊子は記憶の底に沈みつつあるだろうか?
あれから5年後の今年、2015年の12月、フエンテは記念すべき66号に達した。エッ? 66? この数字って何? 何か意味があるの? 75だったら解るけど...? よく75周年記念万年筆というのがあるよね...。そんな声が聞こえてきそうだ。
確かにそうだ。66というのは、あまりピンとこない。
それでは種明かし。66は100を1とした場合の3分の2。正確には66・6......だが、切り捨てて66。33が1/3。50が1/2。66が2/3。我々の道も3分の2まできたのである。何も100号が目標であるわけではないが、一つの到達点ではある。
ところで、この2/3。これは1/3が2つ分。はたして、この1/3という値は大きい値であろうか、それともそうではないものであろうか。
1/3は3割3分3厘。野球で言えば強打者だ。1/3は大きい。一方、テストの点数が33点。100点満点の1/3。もっと勉強せねば。この場合の1/3は小さい。ところが、いつも一桁の点数だった人が33点をとった。この時の1/3は大きい。同じ1/3でも大きく見えたり小さく見えたりする。
突然だが、世界中の人々のうち、大便後に紙で尻を拭くのは1/3だそうだ。そして世界中の1/3の人々は紙以外のもので尻を拭く。例えば草とか木の皮。中には指で拭くという人たちもいる。では、残りの1/3はなにで尻を拭くのか?
拭かない。そのまま。自然のまま。ウンを天に任す。堅めの糞はコロッと落ちるし、軟らかめの便であっても、そのうち乾燥して剥がれ落ちてしまう。
世界の人々の1/3が尻を拭かないらしいことを、どうやって調べたのか疑問は残るが、問題はそれぞれの1/3を多いと感じるか少ないと感じるかということ。これは一つの提起だ。
世界は実に広い。多様性に富んでいる。多くの価値観で溢れている。その差異をどのように受け止めるか。国内外で不穏な事が相次いでいるが、尻を拭く所作が紛争の種にならないことを願うばかりである。
フエンテは100号で終わりというわけではないが、何事も終わりというものはある。取り敢えず100号を目標とすると、残りは1/3。これを多いと見るか少ないと見るか。
いずれにしても、平和な世の中であればこそフエンテが存在していることは間違いない。とすると、フエンテが続くかどうかというよりも、平和な日本が続くかどうかという話になってくる。そして、世界の平和へと話は展開する。
66からいろいろと話が飛んでしまったが、現職の時の私の授業がこうだった。僅か半年前の退職なのに遠い昔のような気がしている。
65号編集後記
【その1】
世で言われているラインというものがどのようなものであるかを、私は知らない。SNSが、アメリカでは大人のためのたまり場であるのに対して、日本では若者のためのたまり場となっているというような話も、その真意は分からない。知らない世界がどんどん大きくなっている。
私は早期退職したことで、生活の中のいろいろな場面を整理した。まず車を処分。そして携帯電話を解約した。電話番号を記入した手帳と十円玉を持ち歩き、電話ボックスでガチャガチャ・ピッポッパとやる。夏場は大変だ。ボックスの中は異常に暑い。ドアが閉まらないように足で押さえる。あの人、可哀想に...という、道を歩く人の同情の視線を感じる。
そのような訳で、今後もラインやSNSを体験することはなさそうだ。
フエンテ65号。この一冊、様々な事柄や人それぞれの生き方・経験が織りなされている。20年近く前の話もあり、読んでいると、ふっと自分の体験や経験と重なり、ほのぼのとした気持ちになる。自分が歩いてきた道が肯定されたような安心感を覚える。この感覚が今風で言うとライン?(違うかな?)
ところで、フエンテ65号には、時間・空間・人・精神・筆記具・文学・科学・芸術と、さっと思いつくだけでも8個の要素が含まれている。これらは、どの二つを用いても他の一つを表現することはできない。(こういうのを数学の世界では独立というらしい。)フエンテ65号は少なくとも8種の糸で織りなされている。そして、その糸は独立している。つまりフエンテ65号は少なくとも8次元の世界なのである。
宇宙空間は11次元とか? 雲を掴むような話という比喩はもはや届かない。それでは、世の中のラインというものは何次元の世界なのか? 体験することがなさそうなので、不明のままである。
【その2】
2015年3月、職場から去る日が近くなっていた。数学準備室の窓から外を見ると落葉した枝に生気が蘇っているように感じられた。今年の冬の寒さも厳しかった。しかし春はもう近い。半袖・短パンの生徒たちが走っている。そろそろ荷物の整理を始めなくてはと思っていた私に訃報が入った。
長原さんとのお付き合いは長い。年に3回、私(私たち)は長原さんとフエンテを通して会っていた。フエンテで川西謙さんの、長原さんに関する連載が始まったのは1996年発行の9号である。その後、2011年発行の54号まで、毎回川西節は続いた。
ワクワクした気持ちでエスカレーターを駆け上がる。長原さんにチラッと挨拶をして店内に並べられた万年筆を見て回る。そして、ペンクリに訪れた人と長原さんとの会話を聞くとも無しに聞く。時に内容をメモする。川西さんの番になる。「あんしゃんのために作ってきたもんがあるんじゃ」「せやけど、見せんほうがええかも知れんのう」川西さんは値段を聞き、何とかなる金額であると自分を納得させ家に持ち帰る。その夜、川西さんは買った万年筆で文字を書いてみて、自分の線を更に研究していく決意を新たにする。
この流れが何話も続いた。そして、もっともっと続くはずだった。しかし、2011年に川西さんが逝去され連載は終わってしまった。フエンテの中から一つの世界が消えた。
この連載を通して私は長原さんのお人柄に接し、長原さんから多くのことを学ぶ事ができたのだった。
長原さんは立ち止まらない人だった。常に自分の可能性を切り開こうとされていた。その可能性は高度なものであり超一流のものであった。到達点はなかった。より面白いもの、より高性能のものを追求され続けた。
その生き様こそ、私が長原さんから学んだことだ。とても真似はできないが、その姿勢だけはもっていたい。
川西さんと長原さんが亡くなられてフエンテから一つの世界が完全に消滅した。しかし、お二人の熱いドラマはフエンテのバックナンバーの中にしっかりと息づいている。フエンテが存在し続ける限り、お二人のドラマは続いている。ささやかだが、そのフエンテの灯火を消してはならない。私は、長原さんの逝去の際、その思いを新たにした。
64号編集後記
私が使っているパソコンはNECのLaVie NXというもので、立ち上げるときにwindows 98という文字が浮かぶ。かなり古い。キーボードのAとSとNのキーの文字が半分消えている。使用ソフトは一太郎11。画面上の、方向を示す▲や▼などが不可思議な文字に変わっている。ブロック体以外の文字が何時からか使えなくなった。赤色を指定しても緑色で出てきたりするなど、かなり怪しい動きもする。
しかし、文字を入力することはできるし、保存・読み出しもできる。そして、何よりもキーのタッチがいい。ブラインドタッチの距離感も、このキーボードで私の指は覚えた。だから、使い続けている。
『趣味の文具箱』や『ふでばこ』を読まれた方から、素敵な書斎ですねとの声をいただいた。写真というものは、良く写るものらしい。カメラマンの腕もいいのだろう。写真に写っている品々は30年近くかけて入手してきたもの。それぞれにいろいろなドラマがあった。
新しい物を購入する際、どんなに気に入った物でも、それが既に部屋にある物に溶け込まずに周囲の物と喧嘩してしまう物であれば、私は買わない。統一感を重視する。高価な物は買わない(買えない)。でも、時には買ったかな。書棚や小さな台は私の手作り。ジャストサイズで作ることができる。数千円。額に入っているのは、古山さんの作品以外は絵葉書。安い。送っていただいた絵葉書もある。それらの絵は、いつも私を励ましてくれている。正面の壁は、一種の「作品」だと考えている。部屋のレイアウト・模様替えは何度やったことか。その時々の、ものの見方・考え方に従った。年齢相応の現れ方があるものだ。その結果が現在の私の書斎だ。30年近くの時間の蓄積が、私の書斎にはあるのだ。
この3月に、私は36年間勤めた教育現場を去った。36年間、それは実に濃厚な年月だった。その厚い時の流れを思い出しながら、厚い時の流れを感じる部屋で、そして、厚い時の流れを感じるパソコンを使いながらフエンテ64号を作った。
64。それは2の6乗。さて、気長に2の7乗までフエンテを続けますか。
そうだ、そうだ。巻頭の歌の現代語訳を募集します。次号でそれを楽しみちょびれ。
63号編集後記
今年の交流会も無事に終わった。一年振りの再会。中には数年振りという人もいる。しかし、一向にそのような感じがしない。手紙をもらったりした時や、年に3回のフエンテを発送する際、顔を思い浮かべているからだろうと思う。
今年の講演会は枻出版の『趣味の文具箱』編集部の清水さんと井浦さん。『趣味の文具箱』がどのようにして生まれたのか、その編集・発行にはどのような御苦労があったのか、短い時間ではあったがお聞きすることができた。
『趣味の文具箱』は2004年創刊だったが、その計画・準備は2000年からだったそうだ。4年間もの間、会社を説得したり、情報を収集したりされたそうだ。そして、いよいよ2004年にスタート。「2004年から10年間、人間で言えば成人式を迎えた感じかな。これからはもっと成熟させていきたい」と清水さん。
やはり、生の話というのはいい。嬉しい顔、辛い顔、悔しい顔、その時その時の体験が表情に出る。それらを感じながら話をお聞きした。(井浦さんの目が一瞬潤んだのを私は見逃さなかった。)
交流会が終わり、会場での立食パーティー。古くからの人に交じって、今年は新しい人が多く参加された。嬉しいことだ。会場には、美味しいピザと寿司、そして、会員の冨樫さんから赤ワインとシャンパンが届けられていた。切り裂きジャックと異名を持つ冨樫さんだが、ワイン通で有名な方だ。葡萄の種類は勿論、それぞれの地区の、年代の、例えばその年の夏の気温や降水量などから葡萄の出来具合を割り出すなどして、冨樫さんはワインの品質を語ることができる。冨樫さんには乾杯の時、これから飲むワインについての蘊蓄を語っていただこうと思っていたのだが、生憎の不参加でそれは叶わなかった。
しかし、盛大にパーティーは始まった。皆さん、いい顔だ。嬉しい。そして、ワインが美味しい。無事に交流会が終わったという安心感もあり、幸せいっぱいで味わった。香りが深い。口の中にワインの味わいが幾層にもなって広がっていく。成熟を感じる。
うん? あれ? ワインの味が何かを語っている。うん? 何だろう? この感触は! ワインが何かを語っているのだ。
葡萄を植えた人たち、育てた人たち、収穫した人たち、ワイン作りに関わった人たちの存在、そして、経過した時の流れの厚み。そのようなものを強く感じたのだった。
これはこれは...、折角の冨樫さんからのワインだ、もう少しいただこうと、私はテーブルに置いてあるボトルからカップにワインを注ぎ、それを口に含んだ。
その時、初めて気付いた。
ボトルラベルの2004の数字。
その瞬間、目頭が熱くなった。
ワインボトルは交流会初日から会場に展示していたのだが、全く気が付かなかった。冨樫さんから、交流会に参加できなくなったと、当日私に連絡があった際も、冨樫さんはワインの詳細には全く触れられなかった。
無言の伝言。
冨樫さんらしい。
伝言を、ワインが私に語ってくれた。
萬年筆くらぶを発足して良かった。今年も交流会を開けて良かった。そして、講演会に枻出版の清水さんと井浦さんをお招きして本当に良かった。
『趣味の文具箱』を植えた(生んだ)人たち、育てた人たち、関わった人たち、経過した時の流れの厚み、それらを見事に祝福してくれ、素敵なパーティーとなった。
無言の演出。
この静かな感動の余韻は今も続いている。